三笠や夕張など、北海道を語るうえで非常に重要で特殊な場所を散歩するのが好きです。
一方、かつて炭鉱で栄えた街というのは閉山に伴う過疎化が往々にして揶揄的に取り上げられることがあり、「廃墟がヤバイ」「想像以上にヤバかった●●」のような、自分はそういう取り上げ方を好まないので取り上げるに際し一応以下に思いを書き添えた次第です。
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三笠や夕張を取り上げる際、「廃墟群がやばい」「財政破綻後の夕張がやべえ」という取り上げ方をする記事や動画がずっと苦手であった。
三笠や夕張の話はしたいけど、むしろずっとしていたいほど好きな町だけど、「見て!廃墟廃墟!こっちも廃墟!やべえー」的に取り上げる記事や動画が多く出ていてちょっと胸が痛む。「あ~あw」とあざ笑う感じで取り上げるのは自分の中では考えていなくて、勝手に空き家の敷地にずかずか入って行って落ちてるものを拾い上げてうわ~みたいな、そんなことはいくら再生回数が稼げようがどうしてもしたくなかった。
三笠も夕張も炭鉱によってできた街。炭鉱という仕事がなくなった以上、仕事で集まってきた人が再び流出するのは当然も当然、自然発生的にできた昔からの町や村が過疎化して廃村になるのとはまた性質が異なる。
“廃墟感”を煽る動画を作成する人は外部から来たため分からないのも無理はないが、別に夕張でなくても北海道の田舎の方にいくとよくみかける普通の風景までもが「過疎化やべぇ」扱いされているのにも疑問符が残る。
過疎化は全国のほとんどの地域が抱えている問題であって、べつに夕張に限らないし、なんなら夕張は財政を立て直し再生している”上り坂”にある。これについては夕張市ホームページの借金時計を見ると私のような素人には分かりやすい。
実際歩いて見ると、炭鉱で栄えたことのある町というのは私が過去に住んできたどの街より繁栄していた豊かな歴史の痕跡がある。先人たちのとった白黒写真の中には元気いっぱいほほえむこどもたちの姿や、おぶ紐であかちゃんを背負いながら雪の中買い物をする女性の姿がある。時に井戸端会議に花を咲かせる女性たちの姿もある。どれもこれも、割と最近、ほんの数十年前まで実際にあった姿。元炭鉱マンもまだ元気に社会で活躍していたり、こどもの頃炭鉱住宅に住んでいたという人たちも大勢いるような、非常に近い歴史。その痕跡にちょっとでも触れたい。炭鉱の歴史、それは人生の機微とも交差し、なんとも形容しがたい価値がある。そんな思いで散歩をしている。
はじめて炭鉱を目の当たりにしたのは奔別の立坑だった。
ドライブ休憩中にみた立坑の姿に、炭鉱の知識ゼロなのに不思議と「あれは炭鉱跡なのでは」と思った。すでに幾春別には駅も線路跡もなく、山の中に突如現れた住宅群をみてびっくりしたものである。ここにはなにか巨大な産業があったんだ…と鈍い私すらも感づかせるだけの力強い立坑の姿が夕日に照らされ綺麗だった。
駅跡地は広大な空き地半分、端は駐車場、その真ん中にぽつんとバス停。
バス待合所とトイレ。田舎ににつかわしくないその広大な敷地とぽつんとしたバス停のアンバランスさに、初めて見た時はどこか駅らしさを感じて線路がないかさがした。もしかしてここは駅だったのではと思った。今でも知識はないが、当時は北海道にも移住したてでここが何市かもわからず休憩していたような状態(三笠市と分かっていても炭鉱と結びつくような知識もなかった)。それでも駅を思わせる雰囲気だけは残っていた。
駅跡地の向かいには公園らしきものがあり、お祭りができるようなステージも、噴水も、遊具までもあったけれど、この町に遊具であそぶ年の子どもはいるんだろうかとも思ったものだった。ほんの数年前までこの公園(三笠開拓記念広場)には飲食店が残っていたのだが、それすらも知らない状態で跡地の公園に立っていたのだった。
街というのは動かないようで絶えず動いている。札幌も大きなビルの解体ともなれば少しローカルニュースで取り上げられることもあるが、基本的には街というのは静かにそこにありながらどんどん形を変えていく。歴史的価値のあるものだからいつまでもそこにあるとおもっていたらあっさり更地になる。さらに道路まで変わったりして気が付いたら昔の面影は消えている。そのスピードがものすごく早かったのが炭鉱のあった街で「街は絶えず姿を変えている」を何よりも教えてくれる存在でもある。神社や学校など、いつまでもありそうなものも、実際には消えてしまうし、そうなると痕跡を見つけるのすら難しくなる。そんなことも教えてくれた。
このサイトで取り上げている炭鉱の町の現在は、けっして人口減少に伴う揶揄の感情は含まれていないことを先にここに書き留めておく次第です。