尾形百之助の育った家にあるゆりかごの意味|ゴールデンカムイで寄り道さんぽ#4


尾形「でも いくら鳥を撃っても あんこう鍋を作り続けるんです」
(ゴールデンカムイ 第103話 あんこう鍋)

ゴールデンカムイで寄り道さんぽ#4の今回は、尾形百之助が育ったあの家です。

※動画派の方はこちらもどうぞ

ゴールデンカムイさんぽ3 尾形の育った家が登場します

「ゴールデンカムイ」(野田サトル作)の主要人物の一人、尾形百之助の育った建物のモデルは、北海道開拓の村の漁村群にある、旧秋山家漁家住宅。

尾形は茨城県で育ったようである。「第103話 あんこう鍋」では本人の回想で『母とまだ赤ん坊の俺を茨城の実家に連れ戻した』とある。毎日あんこう鍋が食べられる環境となると、茨城でも海寄りだったと考えるのが自然か。

柔らかな陽が入り込む台所。尾形の母がここでアンコウ鍋を作っていた
子どもの尾形はここから台所に立つ母の背中を見ていた回想シーンがある

尾形が育った家のモデルとなったこの建物は、海沿いにあった漁師の家。

明治期に北海道に移住した漁師(秋山喜七)が大正9年に建てたものである。

北海道にあった家ではあるが、このころの北海道民はたいてい郷里を離れて北海道に移り住んだ者であり、この家の主も本州(秋田県の男鹿)から移り住んだ人が建てているので、多少建築時期と作中の登場時期と時代が前後するが作品のモデルとしてとくに無理な部分は見当たらない。開拓期の家は出身地の工法で建てられることが多いのでこの建物が本州の家のモデルとなっていてもじゅうぶん通用する。

モデルとなったこの家の漁師の家系はなんともアットホームで温かい漁師の家だったようであり、家の端々にその形跡が残るような展示になっている。

かわいらしいゆりかご。奥の布団は出稼ぎにやってくる人用であろう

小さいながらもしっかりとしたゆりかごや、郷里秋田から来た出稼ぎの人用のふとん、家族で手仕事で日々繕っていたであろう家に持ち込まれた網などがリアルに展示されている。

ニシン御殿でヤン衆していた人たちは三枚のムシロ(わらを編んだもの)を配布され、各自それで寝たと言われるが、ここはあたたかそうな布団。アットホームな雰囲気が伝わってくる。布団の上に着替えも用意されているかに見える。あたたかい心遣いだ。

この小さなゆりかごから見る尾形の母の想い

ちなみにこのゆりかご、第103話の尾形の回想シーンにも端の方がちらりと映っている。ベビー百之助が揺られていたゆりかごということになろうか。

回想シーンでは尾形は今で言う小1くらいだろうか、正確にはわからないが銃で鴨を撃ちとってこれるだけの年齢なので少なくともゆりかごを使うような年ではない。ではもう不要なゆりかごがなぜあるのか…。

尾形の母が「また(尾形の父との間に第二子ができて)使うかもしれないから」と思い捨てられなかったのか。それとも「(尾形の父が)百之助に買ってくれたものだから」なのか。どちらにしろちょっと胸が詰まる思いになる。後述するがこの家は杉元佐一の実家のモデルとしても登場しており、その際にはこのゆりかごは描かれていない。

網の手直しをしていたであろう様子が展示されている

明治のニシン漁全盛期は、ニシンもまた大金をもたらす”ゴールデンカムイ”であった。ニシンはアメリカのゴールドラッシュのように北海道の各港町に繁栄をもたらし、海沿いのあちこちに壮大な御殿が立ち、うなるほどの金持ちがたくさんいた。だが、それらの壮大な鰊御殿に比べるとこの家は家族単位で漁をしていたので小規模である。

…が、後にこの小規模が功を奏すことになる。

自然相手の商売、時代により徐々にニシンは漁獲量が落ち始める。明治30年に過去最高の漁獲量を叩き出した記録があるが

鶴見中尉『事実……東北からニシンは年々と不漁が続いている』

ゴールデンカムイ第40話 ニシン御殿

この鶴見中尉の言葉通り、繁栄にかげりが現れる。このセリフはおそらく明治40年。実際この頃北海道のニシン漁獲量は一度がくんと落ちている。鶴見中尉のこのセリフは核心をついているので辺見の親方(ニシン御殿の主)には響いたはずである。こんな成金暮らしに未練はないと端から腹をくくっている態度がとても男らしくよかったが、当時たくさんいたニシン漁関係者たちにとっては薄暗いかげりが見え始めた時代でもあった。漁獲量はその後また一時回復するが、技術が進歩し機材が近代化されていっても明治30年のようにはならず、下り坂をたどり昭和30年代に完全に衰退してしまう。

…とはいっても!明治期のニシン漁はピーク時ではなくても三ヶ月弱働けば今のお金で25億円はもうかった時代である。

尾形の家のモデルの話に戻るが、もしこの家の漁師が他のようにニシンだけ獲ってたくさん出稼ぎを雇って大規模にやっていたらさらに大きな御殿がたったのかもしれないが、漁獲量の変化とともに他同様消えていったかもしれない。この家ではニシンに特化せず、最初から磯廻り漁などいろんな魚を獲って生計を立てていたので、むしろ鰊御殿より長く続いた。尾形の家のモデルは三代に渡り受け継がれ昭和53年まで使われていたそうである。

昆布、イカなどが見える。実際ニシンだけでなく磯漁などもしていたようだ
ちなみにの話

尾形の家のモデルは奇しくも杉元佐一の生家のモデルでもある。

第6話、杉元と梅ちゃんが無言で(距離を取って)向かい合っているシーンにこの部屋が見えている他、

佐一の父「家を出なさい 結核に捕まるな」

ゴールデンカムイ 第236話 王様

の回想シーンで出てくる。父は右隣の寝室で寝ている。このとき上記のゆりかごは描かれていない。佐一の家には描かれず、尾形の家には描かれたゆりかご。やはりこのゆりかごは意図的に描かれていたりして…という気持ちにさせる。尾形の母の中ではゆりかごが使われていた「あの頃」から心の中の時計が止まっているのかもしれない。

縁側、隙間から雪が吹き込んでいるのが見えるだろうか。

築100年以上になる家ということもあり、薄い板の隙間から雪が入り込んでいる。昔の家は寒かったのだ。

ちなみにの話 その2

そしてさらにこの建物の外観は渋川善次郎の家のモデルでもある。

旧秋山家漁家住宅外観。渋川善次郎の家のモデルであると思われる

土方歳三「久しぶりだな 渋川善次郎」(ドガァッ)

ゴールデンカムイ 第21話 亡霊

渋川善次郎の家は実際に人が住んでいて暖かかったのでつららがたくさん描かれていたが、このように人が住んでいない家はつららができにくい。つららは寒いからできるんじゃない、あったかいからできるんだ!(北海道に移住して学んだこと)

ゴールデンカムイ寄り道さんぽ#4尾形百之助の育った家にあるゆりかごの意味(旧秋山家漁家住宅)

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