奔別小学校跡地を探すさんぽその1―月見坂のもう草木に埋もれてしまった石垣


生まれも育ちも三笠ではないのですが、三笠という特殊な歴史を持つ町に魅せられて毎年三笠を散歩しています。

動画派の方はこちらの動画をご覧ください。旧奔別炭鉱から出発して幾春別小学校・奔別小学校を探すさんぽを乗せています。奔別神社にも向かいますので是非最後までご覧ください。

三笠市 幾春別(いくしゅんべつ)。かつてここには大きめの駅があり、それは栄えた繁華街がありました。飲み屋街があり、神社のお祭りが華やかに行われ、映画館は複数あり、呉服屋多数、旅館も多数、デパートまであるという本当の繁華街でした。

幾春別が栄えた理由は炭鉱。三笠市はいくつも炭鉱を抱えたそれは裕福な街でした。人口もたいへん多く、今三笠を車で通る方はこの町のどこにそれだけの人がいたのか想像つかないかもしれません。

まず散歩のスタート地点、奔別炭鉱。旧奔別炭鉱立坑櫓というべきでしょうか。

旧奔別炭鉱跡。大きな立坑が残っている。

私の三笠好きはこの立坑の勇ましさに事を発しているのですが、周囲はすっかり山に還り、当時の炭鉱労働者の方々がみたら信じがたい光景かもしれません。このあたりに炭鉱施設と夥しい数の炭鉱住宅、そして繁華街と、辺りは炭鉱で栄えていました。古地図を見るとこの周囲は炭鉱施設と炭住(炭鉱住宅。炭鉱労働者とその家族が住んだ)で見渡す限り開拓されていて森が見当たらないほどでした。

さて、今回は奔別小学校という当時あった壮大なマンモス校の跡地を巡る散歩です。

当時の奔別小学校の写真が三笠市教育委員会のサイトにありましたのでこちらからリンクしてみてください。どんなに壮大な小学校だったかが伺えます

そしてこちらがそのとなりにあった幾春別小学校。この壮大な小学校が二つ隣に並んでいるのですから、当時の人口が相当なものであったのは間違いありません

看板が外されているのが少し悲しい奔別炭鉱から今回の散歩出発です。

コンクリートの門から何かが取り外されている。
おそらく住友奔別炭鉱と書かれていたのではないかと思われます

さあ、奔別炭鉱を背にしておさんぽスタートです。

この道が駅と奔別炭鉱をまっすぐつなぐ駅前通りだった。
メインストリートと言っていいと思われます

この道を月見坂の入口までくだります。今は更地が目立ちますが、古い写真で見るとびっしりとお店が並び、またその店が凝った造りで裕福な街の様子が伺えます。映画館やデパート、何十もの飲食店、呉服店や髪結所…本当になんでもある繁華街でした。

正面に見えているのはミヨシ酒店。天狗やと呼ばれていたとも聞きます

ミヨシ酒店。立派な酒店。空き家となっているようだが元の造りが良いのかまだしっかりとしています。

月見坂に入りました。

このあたりにもお店が並んでいたらしいです。

びっしりであったであろう飲食店もなくなってしまった現在、月見坂の入口からも奔別の立坑がよく見えます

このカーブに去年まで祠があったはずなのだがとうとうなくなってしまった。

思い出せないのですがここになにか建物がありました
普通の車庫のようなものなのか、記憶では神社っぽい建物だった記憶なのですが…

右にコンクリートの土台のようなものが見えますでしょうか
その上に祠があったと記憶しています

昨年偶然撮れていました。神社だと思っていた建物はどうやら馬頭観音だったようです。左には小さく祠が映っておりますが、この時点で90℃回転しながら倒れてしまっています。もっと以前は正面を向いていて倒れてはおりませんでした

高齢化や過疎化により年々管理できる方々も減ってきているので、こういった撤去はどうしてもしかたないことです。撤去することに関わった方々はお辛く心苦しかったことでしょうね。こうして偶然にでも画像として残しておけることが出来て良かったです。

この100m程度の短い距離の散歩でも、あの空き家、壊れてはいなかったのに…とか、ここ去年通りかかった時はおばあちゃんがニコニコしていらしたけど、今年は窓ガラスが割れて廃屋になっている…などと胸が詰まるような思いが駆け巡ります。止められない時代の流れと時の流れ。すべては仕方のないことです。

そしてカーブからみた月見坂。

月見坂。ずっとこの道幅そのものが月見坂だと思っておりました

いままでYoutube動画などで「こんな狭い坂をバスが通っていたそうです」みたいに紹介してきていたのですが、今回、実際に歩いて見たことでやっと気づいたことがありました。この道、言う程狭くなかったのです。

正確に測った訳ではありませんが、生い茂った草木により、道幅のうち1.5mから場所によっては3m程奥に石垣(つまり道路の端)があるのです。本来道の端は石垣まであったと考えると、結構幅のある道路で、バスが通ってもなんら不思議はありません。

しっかりした道路があったことが、奔別が栄えていた証でもあります。

上記画像のこのあたりも、この先も、昔は炭住で埋め尽くされていました。昭和40年代くらいまででしょうか。ただ古地図で見ると唯一月見坂の右側だけはいくらか森があってその丘の上に学校だったようです。

途中、ここだけ石垣が途切れています。

草木に埋もれて分かりにくいかもしれませんが、よく見ると
ここだけ石垣が途切れている

少しわかりやすく補助線を入れてみます

石垣が途切れているところがある

こんな風に石垣が途切れています。近所にこんな石垣がある地域にお住まいになった経験のあるの方なら「石垣の途切れめにはそこに入っていく階段や道がある」といったら頷いてもらえるかもしれません。そういうこと多くないでしょうか。石垣に沿うように階段があったり。

ここにも石垣の途切れめに道があったのではないかなとちょっと思ったのです。

よく見ると、地形がこういう形で凹んでいるように見えませんか。草の背丈がここだけ低いのです。

考えすぎでしょうか。傾斜的に坂道でなく階段かもしれませんが、どちらにしろ草木に埋もれてしまっていました。雪が降る直前の11月頃だったら分かりやすかったでしょうか。

そしてまた石垣が復活しているのでここだけきれいに石垣が途切れているのはなんらかの理由があってしかるべきではないかとも思ってしまうのです。

考えすぎでしょうか(二回目)。

復活した石垣に沿ってまたお散歩を続けていきます

次回に続きます。


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