奔別小学校跡地を探すさんぽその3―小学校の痕跡は今もありました


前回からの続きです。動画派の方はこちらをご覧ください。記事はこの下に続きます

前回、奔別小学校跡地の堆石場に立ったところまで来ました。今回はその周辺に合った小学校の痕跡の話です。

まず、後ろを振り返りました。

前回のさんぽで丘を上がっていく小路の跡で街灯を二つ発見しました。その小路の流れ的に、この辺りにその小路のゴールが確認できるかと思っていたのですが、なにか石でできたものがありました。校門の跡かと思ったのですが、そうではありませんでした。

見えますでしょうか。草木にだいぶ埋もれてしまっているので拡大します

堆石場を背にしたところ。何かの石碑と石塔(上部以外草で隠れている)を発見

奔別出身の戦没者慰霊碑と慰霊塔です。奔別は明治あたりから炭鉱の歴史が始まっているのでこちらから戦地へと行かれた方も多くいらっしゃったのでしょう。ただ戦時中はより多くの石炭が必要だったはずです。その担い手となる炭鉱夫に召集をかけてしまうと炭鉱の現場としてはだいぶ困ると思うのですが、戦時中は女性がその担い手となったのでしょうか。この辺りは今後の課題として調べていきたいと思います。

ここは当時の地図でいえば校庭の片隅といった場所です。

懐かしの母校があり、さらに丘の上の少し見晴らしのよい場所(当時の地図でもここだけは木々が多少あったようですが)にという思いでこちらを慰霊碑の場所としたのでしょうか。古地図をみてもたしかに学校の敷地の片隅にそれらしき二つの何かがあるようにも見えるのですが、確かな表記はありませんでした。なのではっきり根拠を持って「この慰霊塔と慰霊碑は古地図の学校の敷地内にありました、したがってここは学校の敷地で確定です」ということにはなりませんが、地図からしてほぼここが学校で間違いないという前提で記事を書いております。

ちなみに古地図ではこの慰霊碑もまわり一体も、このような森ではなく炭住でした。どれほど炭鉱住宅がひしめいていたか、毎回想像を超えてきます。

そしておそらく昭和40年代までここにあった炭住が消えてから育ち始めた木々がここまで大きくなっていることに少々驚きます。

残念ながら慰霊碑と慰霊塔は草木に埋もれそうな状態になっておりました。でも秋にはこのあたりの草は一気に枯れて土に還り、冬が近くなればもっと見やすくはなると思います。

慰霊碑に一礼して来た道を戻ります。

校門らしきものも、見つけることはできませんでした。街がなくなるということはこういうことなんだという思いが色々巡ります。恒久的にずっとあり続けるような気がしてしまう馬頭観音や祠といったものまで、なくなってしまっていました(月見坂のふもとにありました)。

さて、来た道を下りようかという時、何かの小さな建物をみつけました。

大きな木々に隠れるように何か小さな建物があった

もう少し拡大します

運動場の隅にあったのではないだろうか、という気がする建物。トイレか倉庫か。
コンクリ製っだがかなり割れていた

場所からいって運動場の片隅にあったはずの建物です。採光用の穴の採り方がかわいらしいので小学校の施設の一部ではとおもいます。

トイレかな。でもトイレにしてはあの採光用の穴、中が見えてしまいますよね?穴じゃなくて昔はぶあつい曇りガラスがはめこまれていたのかもしれません。

もしくは体育用の道具をいれる倉庫かな。どちらにしろ校門すらもう残っていない状況下でこのような姿をみせてくれた倉庫にはなんだかありがとうという気持ちです。状況から判断して昭和40年代くらいのものでしょうかね。

この倉庫?トイレ?の周辺も炭住がひしめいていました。古地図では学校の敷地ぎりぎりまで炭住です。なんの境もないので子どもたちの投げたボールがしょっちゅう飛んできてたんじゃないかしらと思うくらい。炭鉱の町は本当にぎゅうぎゅうでした。

帰り道、撮り損ねたのですがキツネがいました。ずっとザワザワと音を立てていたのはこのキツネくんだったのでしょうか。何か匂いをたどって忙しそうに私の先を歩いていました。

ところでそこら辺を歩けばキツネがいるのはしょっちゅうなのですが、タヌキはほとんど見かけたことがありません。見かけたとしても残念ながら車に轢かれてしまった個体を見かける程度です。

おそらくタヌキのほうが臆病なんでしょうかね。すごくかわいい顔をしているんですよね。エゾダヌキ。轢かれてしまいがちなのはびっくりすると死んだふりをしたり動かなくなってしまうのが一因でしょう。

最後にもう一度学校の跡地を眺めて帰路に就いた

ロータリーまで戻ります。このロータリーには岐路がたくさんありますが、全て今は通行禁止。中でも川端町方面へいく道は一番道幅もあり炭住や店なども多く賑わっていた地域なのですが、現在は

月見坂を上って川端町方面への道。草に埋もれてしまい進めない状況

この道は舗装されていなかったのか、もうすっかり埋もれてしまい見えなくなってしまっていました。炭鉱のあった時代は相当栄えていた地域なはずで、古地図からもそれは明らかに見て取れます。ひしめく住宅の他に幼稚園、プールなどあったようですがもう面影を探すのは難しそうです。冬なら木の葉がなく草も一度なくなるので面影を辿れるのでしょうか。

川端町方面へ行くことが出来ないという鉄の門と関係者以外無断通行禁止と書かれた看板が
あったのですが、むしろ門が開いたままで…それでももはや道がなく入ることが出来ない状態でした

さあ、次は奔別神社へ向かいます。今回も最後までありがとうございました。続きはまた次回をご覧ください。


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