前回からの続きです。札幌村郷土資料館。今後折に触れ通いたくなる面白さです(個人的にはですが)。
一階には農業用品とでもいいましょうか、当時の道具が展示されていました。
そのほとんどはある意味ではおなじみのラインナップ。ローカルな資料館や開拓の村なんかには必ずといっていい程展示される昔の農具です。しかし実際に使われてきた貴重なものに変わりはありません。ありがたく見学。こういうのを見ているだけでも楽しいです。細かくたくさんの傷がついているものが多く、それがリアルな歴史を感じさせてくれます。地元の小学生は社会科なんかで見学に来るのでしょうか?見学中にそんな感じの電話のやり取りが聞こえてきました。小学校の社会科でおすすめな場所ではあります。
1階の展示で一番目を惹くのはやはり馬の剥製でしょうか。
馬は粗食に耐え、寒さに耐えうる東北地方から持ち込まれた馬が道産子の源流となっているようですが、この剥製は道産子なのか、聞きそびれてしまいました、とても小柄で、足が細いようにも見えます。資料館におさめるために小柄な剥製が選ばれただけかもしれません。
道産子はとっても足が太いイメージがあるのでこの馬が道産子なのかはちょっと疑問だったのですが(こういう所こそ質問すればよかったのに頓珍漢な質問ばかりしていました。詳細は前回)。
どのみち写真にも映っているように馬がたまねぎ栽培においても活躍してくれたのは事実で、資料館の近くには馬頭観音もありました。
上の画像は道産子がタマネギをのせて運ぶ様子。何箱分でしょう。大きなタマネギ出荷用木箱が18個くらいあるでしょうか。2番目の馬はもっとあるように見えます。タマネギなんて5kg の袋を買っても帰り道後悔するくらいですからね、馬力というのはすごいものです。車輪がついているとはいえ人力では賄い切れない力です。案内掲示には昔の人は馬を大事にして起居も共にしたとあります。
おそらく本当に起居を共にした家が多かったろうと思います。開拓の村などで馬の居場所と人の居場所が近いなと感じられることがありましたし、暴風雪時など冬は土間につないで寝たこともあったかもしれません。
そして個人的に一番目を惹いたのがこちら。
いつの時代のものでしょう??見えますか、鉄製のここにしっかりと「OTAKE」。足踏み回転脱穀機。
今でもありますね。農機の超老舗メーカー、大竹製作所のものですよね?
大竹製作所さんは明治44年創業のようですので、大正~昭和初期あたりの農機だと思われます。今でも稼働しそうな、しっかりした機器で感動を覚えました。
堅牢なつくりで見ただけで頼もしいこちらの脱穀機。でももしこの農機がまだ動いたとしても、このあたりにはもう田畑がありません。すっかり都会。地価もあがり、産業の中心が変わればそれはやむ負えないことです。でもこうして農業をしていた証がこの地にあるのはこの地に立つ我々には意義深いことだなと思いました。ご近所に住む方々は逆になかなか訪れない場所かもしれませんが、一度行ってみるとご自身の住むこの辺りの土地が今よりもっと誇らしく、好きになると思います。
この足踏み回転脱穀機は、一大発明品だったようで、それまでは千歯扱きが使われていました。200年以上千歯扱きが使われていたようです。
その後明治の終わり辺りに登場したのが足踏み回転脱穀機。同時多発的に出てきたのか分かりませんが、山口、広島、富山などで考案されたという案内掲示を見ました。北海道にこれがやってきたのはずいぶん後になってかと思いきやそうでもないようで、大正期には各メーカーがこぞって北海道に営業をかけていたそうです。そんな古くから今後北海道が一大産地になると見込んでいたのですね。いや、その為に開拓されたので当たり前でもあるのですが、官民ともに”試される大地”として北海道をみていたことが分かります。お米ってもとはあたたかい場所でのみ栽培できるので、北海道がここまでお米の産地になるとは当時なかなか考えにくかった気もするのですが、品種改良のゆく先もメーカーにはきちんと見えていたのでしょう。
床にも展示が。
大友亀太郎が作った大友堀を示す地図です。後に運河となり、創成川となり、今も残ります。とくに運河として使われていた頃は物資を運ぶのにそれはそれは生活の支えになっていたと思われます。
この地は1866(慶応2)年に江戸幕府の命を受け大友亀太郎さんが農夫10人程度を引き連れてやってきたのが最初と言われています。ほぼ0からのスタートというたいへんさは相当なもので、お茶碗一つ欠けても代わりを買うことはもちろんできず、金継ぎする職人も道具もないでしょう。海に近いところでは貝殻を皿がわりにした話を聞きますが、この辺りだとおそらくは木をくりぬいて作ったのではないでしょうか。
薬もとりあえずは持ってきたものだけ、食料も栽培に失敗したら終わりです、猟も最初のうちは銃弾が切れたらどうしていたんでしょう?あまり活発にはできなかったのではないでしょうか。猟銃があっても、ヒグマや狼から命を守るために使う方が優先だったのではとも思われます。運河ができることで食料品も物資も飛躍的に扱えるようになったのではないでしょうか。札幌に現存する二条市場なんかは、もとは運河で運んだ魚を扱っていたのではないかと思われます。二条市場も創成川のほとりにあります(昔はたしか創成川をはさんで向かい側のほとりにありました。)
札幌村郷土資料館の話はまだ続きますが今回はここまで。次回はいよいよタマネギについて書こうと思います。館の方にも色々教えてもらっておもしろい話が聞けましたのでそれについても記載予定です。
◇大竹製作所のサイトはこちら おそらく上でご紹介した脱穀機がこちらの農機メーカーのもの。老舗農機メーカーで、現在は農機のみならず運送機器や梱包機器も製造されているようです。
札幌村郷土資料館の場所はこちら
“令和の札幌村を歩く。その3|大竹製作所の農機の堅牢さに感動する散歩(札幌村郷土資料館続き)” への2件のフィードバック
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