令和の札幌村を歩くその4|手探りのタマネギ栽培、その足跡が残る


ちょっと違う記事も挟みましたが続きです。前回の札幌村を歩くはこちらです。

この資料館(札幌村郷土資料館)といえばタマネギ栽培に関する展示物の多さ。

石碑も立っています。

「わが国の玉葱栽培この地にはじまる」

今は札幌でタマネギといえば丘珠地区ですが(今もタマネギ畑があります)、タマネギ栽培が始まったところはここ札幌村(札幌元村)でした。札幌元村の隣が丘珠村です。丘珠は現在も札幌市内でタマネギ栽培がまだ残る貴重な地区で、よく「たまねぎのふるさと」などと表現されたりしますが真のふるさととなるとこちら札幌元村だった地区です。

丘珠村だった場所もすぐ隣なので札幌村に続き割と早くからタマネギ栽培をしていたことは考えられますが(のちに合併されて丘珠も札幌村となります)、札幌村郷土資料館の方はタマネギ発祥というと丘珠となってしまいこちらは名前もあがらないことが多いのがちょっと悲しいというようなことをおっしゃってました。

タマネギ栽培に限った話でもありませんが、新しいことを始めるというのは勇気が要るものです。

特に”試される大地”では失敗が命取りです。他で十分裕福になっている状態で新しいことを始めるならいざしらず、明治4年というまだまだ開拓始まったばかりの何もない北海道で、明暗をかけてはじまったタマネギ栽培。アメリカ人の話す英語を聞き取ることからはじめなければなりません。

昭和45年の東区周辺。まだこんなにタマネギ畑が残っていたのですね。
本当につい最近まで、札幌は酪農や畑など 農業と共にありました

北海道はアメリカに農業を習っている部分がたいへん大きいです。大規模農業はアメリカに倣うのが理にかなっていますが、開拓の村などにいくとアメリカ様式の牛舎なんかも残っていたり、アメリカ人の設計図で日本の職人が施工したり、昔の高校も英語の授業がすごかったりしています。

高校で英語を習得しておかないとのちに北大(札幌農学校)に進んだときにアメリカ人の授業を受けることが出来ないという訳で、片手間に英語を習うのではなくかなり本格的でした。昔の北海道というのは本州以南にくらべまだまだ勉強というところまで行き届かないところがあった半面、一部の将来の札幌農学校候補生的な学生はかなりすすんだ英語教育を受けていたと思われます。

資料館の1階にはタマネギ栽培に使われた農具の展示があります。

道具からして人力や馬力のみで広大なタマネギ畑を相手にしていたことが分かります
展示物が多くて2段の棚状になっています

2階にはその歴史が細かく記されています。

資料の展示と共に玉葱の歴史が学べます

この村に指導したのはアメリカ人W.P.ブルックス。クラーク博士の弟子といえるでしょうか。クラーク博士はマサチューセッツ州立農科大学の学校長でしたが、ブルックスさんはそこを首席で卒業しています。その後クラーク博士の推薦を受けるような形で札幌にやってきて、札幌農学校(今の北海道大学)で指導していました。午前中は大学の授業、午後は学生用農地で実習。それだけで慌ただしい毎日だったの思われるのですが、ブルックスさんはそれだけではなく近郊の農家を訪ねて農業の指導まで行っていました。

ウィリアム・P・ブルックスさん。故郷から新種の玉葱を持ってきてくれたそうで、
日本のタマネギ栽培のすべてはそこから始まって慰安す

これが札幌でタマネギ栽培がはじまるきっかけです。たしかに北大の農業試験用地だった場所から札幌村までは近い。近いというか以前古い地図を見た記憶では隣。

明治4年に当時アメリカで新種だった「イエロー・グローブ・ダンバース」というタマネギが札幌村に持ち込まれ、それを札幌村で栽培しはじめました。最初からそう易々とはうまくいかなかったようです。周辺の農家でうまくいったのは資料を見る限り中村磯吉という一人の名前だけ。それも明治13年の話。10年近い歳月をかけてやっと一つの村に一つの大きな成功がやってきた。よく諦めなかったものです。

しかもの成功した玉ねぎ、東京に持って行ったところ「知らんし」とのことで全く売れなかったそう。廃棄して帰って来たそうです。大赤字なんてものではありませんね…

確かに東京の人にしてみたら初めて見た怪しい植物。おいしいかどうかも、調理法もよくわからない訳で、それは当然売れません。

苦心の末札幌の一大農産物となったタマネギ

これでもあきらめずに次から販売は商人に頼んで成功したとのこと。餅は餅屋とでもいいましょうか。各人が専門分野で力を発揮し、ようやく成功、良かった良かった。

たまねぎ関連の展示を見ていると、館の方から面白い話を聞けました。

タマネギという名前が定着するまで、その呼び方もないわけで、最初はイエロー(・グローブ)・ダンバースとそのまま呼んでいたようなのですが、その際、勉学などで教科書を通して学ぶ英語ではなく、農家の人たちがアメリカ人の教えを耳で聞くので、耳から入った英語なんだなと思われる「ヱロー・ダンバース」という表記が残っていました。館の方から教えていただきました。イエローよりなんとなく発音に忠実な感じがしますね。

資料館で見せていただいた褒状(賞状)の一部。
ヱロー・ダンヴァース と書かれているのが見える。
葱頭(タマネギ)も最近なかなか見かけない表記

そして永らくヱロー・ダンヴァースだったタマネギも、もう元々の玉葱にひけをとらない立派な札幌の産物としてやっていけるとなったあたりで「札幌黄」となります。日本最初の玉葱の品種です。ヱローの部分は札幌黄の「黄」として残りました。今でも北海道で売られているほとんどは「黄色い玉葱」に分類されるそうです。白玉葱というともっと白いそうですよ。

ぱっと見海外で撮った写真にすら見える一枚も。

サッポロファクトリーの辺りでとったのでしょうね。後ろのレンガの建物は現存していますが、この頃とは一部が違うように思われます(中央の背の低い建物)。

こちらは実際に撮ってきたサッポロファクトリーのレンガの建物。真ん中のすこし背の低い建物、この時点では2階構造になっていますが上の写真が撮られた当時は建物が1階構造だったようです
玉葱の箱は30㎏、37.5㎏、45㎏の三種類あったようですが
いったいこれは何キロになるのか…


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