すすきのにある豊川稲荷札幌別院の玉垣に遊女の名が刻まれているらしい_その1


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「薄野遊郭」と「すすきの」

すすきのは今北海道一、北日本一といっても過言ではない歓楽街。

歌舞伎町と同じく、別に夜一人で歩いたとてさしたる危険はないものの、奥深く入っていこうと思えばどこまでも入っていけるであろう場所。ある意味出られなくなった人も数多いのではないかというところ。

すすきのは昔から有名な歓楽街なので、そのまま歴史をさかのぼっていけば薄野(すすきの)遊郭にたどり着くと思っていたが、薄野遊郭と今のすすきの歓楽街はつながっているわけではない。薄野遊郭は一度取り壊されている。

薄野遊郭が作られた頃は、街の中心部から離れたところに位置していたが、札幌という街が大きくなるにつれ、薄野遊郭は自動的に「街のど真ん中」という位置になっていく。そして北海道大博覧会が大正7年に中島公園で開催と決まると、札幌停車場(札幌駅)から万博会場に遊郭を通っていくというのはよろしくないだろうということもあって、薄野遊郭は取り壊された。

官の都合で急遽作って官の都合で急遽移転となった薄野遊郭。泣かされた人々も多かったのでは(楼主「リフォームしたばっかやぞ(泣)」)。その後大きな川(豊平川)の向こう側に代わりの遊郭「白石遊郭」を作り直したが、今でさえ川を超えると利便性が大きく変わるので土地の値段にも影響したりするほどで、やはり川の向こうに作られた白石遊郭というのも客の入りに関してはちょっぴり厳しかったであろうと思われる。白石遊郭に向かう橋は遊郭の楼主たちがお金を出し合って作るというそれもまた厳しい状況だったらしい。

どうしても行きたい人はどうしたって行くだろうけど、単純に遠く不便になったのでライトな客は離れていったのではないか。

そんな訳で完全に取り壊したすすきのには薄野遊郭の面影はなくなるはずであった。しかし今遊郭の面影がほとんどないのは圧倒的に白石遊郭の跡地で、きれいなマンションが立ち並び、健全な住宅街となっており遊郭用に作られた道と小さな神社が残るのみ。一方すすきのは今や押しも押されぬ歓楽街として「復活」しており、やはり薄野遊郭が作り上げた街のイメージというのはとてつもなく大きかったのだろうか。

そんな訳で、現在〇〇楼というものはすすきのには残っていないが、確かにそこに薄野遊郭があった証というのは、古くからそこに存在していた寺社に残っていたりする。

寺社というのはそう簡単に移転しないのが実に素晴らしいところで、古地図を見るときに一番頼りになる。このお寺がココということは…という感じで探していくと古い建物が探しやすいことが多い(けどこれはまた別のお話)。

薄野はお寺が多い。凄まじく多い。すすきのという場所は、北は商店街に取り囲まれ、南はお寺に囲まれている。ちょっと大げさかもしれないけど遊郭をぐるりと半円状に取り囲むようにお寺がある。遊郭を包囲する狙いはそこまでなかったかもしれないが、昔の札幌というのは非常にコンパクトだったのでちょっと市街地の端の方にお寺があると言うのがある意味自然な形だったかもしれない。明治の地図だとお寺が密集した場所より南側は本当に「村」という感じでなにもない。薄野(=すすきの)という地名はこのあたりの工事責任者薄井龍之からとってつけたという説もあるが、古地図や古い写真を見ているとやっぱりススキの野原だったからじゃないかと思わせる。

そのお寺の一つ、豊川稲荷札幌別院。駅前通り(昔で言う「停車場通り」)沿いにあるので一番馴染みがあるという方も多く、札幌市民なら一度は通りかかっているのでは。

こちらのお寺に、旅行サイトや口コミサイトでよく、「お寺の玉垣に遊女の名前らしきものが刻まれており…」というような記載を見かけることが時々あった。よく考えたら遊郭の痕跡がほとんどないすすきのに、通常表舞台に出てくることのない遊女の名前が刻まれているのだとしたらなんだかとても貴重な気がして、散歩がてら見に行ってみることに。

午前中のすすきのはとても平和。

今や繁華街の中にある豊川稲荷札幌別院。道を挟んで向かいは成田山札幌別院

薄野遊郭はここからワンブロック先です。ごぞんじすすきの市場のあるあのブロックが両サイド薄野遊郭でした。

遊郭があった場所はこのあたり(道の両側)
この道をまっすぐ進むと札幌駅に突き当たる

ちょっと境内も歩かせてもらって、こちらの碑を見かけました

薄野娼妓並水子哀悼碑。
薄野遊郭の名残は今ではこの碑だけとするガイドも見かける

こちらの碑、建立は昭和51年のようで、娼妓という言葉は出てきますが遊女の名前というのはありません。現在はすすきのというひらがな表記がほとんどの中、こちらは今や数少ない漢字表記の薄野。

娼妓と並び水子哀悼碑でもありますのでぬいぐるみなんかも捧げられており、寄進者による菩薩様でしょうか、水子を救う図であろう菩薩様が何体も周囲に置かれておりこちらのお寺の信頼を感じることができた。(救うという表現が仏教において正しいかは分かりませんが)

動画には書けなかったがこの構図が

おそらく水子たちが菩薩様に救われているという構図なんだろうと素人目にはそう思われるのですが、一方この構図にはなんだか抱っこを懸命にせがんでいるようにも見え、事情を抱えた参拝者を想うと胸が詰まる感情にもなってしまった。無知なので仏像の構図には詳しくないですがこれは救われている図だと思いますのでどうかご安心を。

ちなみに豊川稲荷札幌別院の道を挟んで向かいは成田山札幌別院。(古地図ではそれぞれ豊川山、成田山と書かれている)

この辺りは寺町。札幌が明治時代非常にコンパクトな街だった証とも言える

それではいよいよ次回玉垣を一つ一つ見ていきます。次回もまたどうかお付き合いください。


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