薄野遊廓のひときわ大きな華 大黒座|すすきのにある豊川稲荷札幌別院の玉垣に遊女の名が刻まれているらしい_その10

前回からの続きです。今回の玉垣はこちら。

誰が見ても分かる現代の活字に近い文字で「大黒座主 若狭謙吉」とある

大黒座主 若狭謙吉。これはそのままですね(多分)。あまりにはっきりしているので彫り直したのか札幌軟石ではなく札幌硬石で作ったか作り直したかとも思たのですが、それでもやはり下の方が削れています。吉が若干読みにくくなっています。どうしても下の方は雪に埋もれてしまうので除雪その他で削られやすいのかもしれません。

若狭謙吉は明治29年から大黒座という大きな劇場の主になっています。そしてこの大黒座もかなり変遷を経ていて、明治初年は秋山座という名で別の場所(南四条西六丁目)にあり、明治12年頃南二条西二丁目に移り、明治15年頃に下の地図の位置に移動したようです。

この4ブロックは薄野遊廓の中でもとくに建物がぎっしり記載されている区画。
劇場 大黒座 はここにありました。地図からも大変大きかったのが分かります

その際名前が遊鶴座というたいへん美しい名前になっている。この頃の遊鶴座主は長谷川という名前だったようなのでもしかしたら長谷川楼の主なのでしょうか。考えすぎか。でも関係者かもしれないですね。明治19年に池田新七の所有となりこの時に名前が大黒座となった。明治29年若狭謙吉に譲渡。短い間に変遷がすごいですよね。開拓でめまぐるしい発展を遂げていた当時の北海道の中でもここ薄野遊廓は入れ替わりが激しい地域だったようです。

この大黒座、明治32年5月に改築しているのでちょうどこの神社建設の頃に改築だったのですね。建坪二八四坪五勺という大々的な規模の劇場を建て替えるというときに神社に多額の寄進ができる経済的余裕。とにかく儲かっていたのではないでしょうか。

おそらくこの大黒座は薄野遊廓の一番の華だったのではないかと思う。ショッピングモールでいったら一番の核テナント。ショッピングモールの一番の核テナントが映画館というのは今でもありますが、それに似た雰囲気があったのではないかと思います。

以前の記事でも書きましたが私は薄野遊廓=遊女のお店と思っていましたがこの玉垣と古地図を見ていく過程でその実態はあくまで歓楽街だったのであろうと考えを改めました。遊女のお店では遊ばなくとも飲み食いするのに楽しい賑やかな街だったろうし、遊女のお店に行く人も行かない人もおそらく大黒座には行っていたのではないかと思うのです。やはりテレビの無い時代、劇場は唯一無二の存在だったはず。江戸時代、歌舞伎役者の役者絵がブロマイド的に飛ぶように売れたという話を聞いたことがありますが、この時代もそこから遠くない明治時代。江戸時代と同じくまだ今のようなメディアというのもないですし、寂しいこの北の果てにやってきた人たちにとって賑やかな薄野遊廓とその中にある大劇場はおそらくミニミニサイズの東京のように華やかで楽しい”小さな大都会”だったのだろうと想像できます。

この若狭謙吉さんの寄進額も相当だったことが分かるのが、上の画像の玉垣とは少しはなれた場所に「若狭謙吉」名義の玉垣がさらに4本並んでいる所。

若狭謙吉とかかれた玉垣が4本並んでいた。こちらの画像に3本、その右隣りにもう1本あった
画像が2枚に分かれてしまいましたが4本目はここに。

これは昇月楼とかと並ぶ寄進額でしょうね。しかしなぜ少し離れたところに4本あるのか謎です。

一度工事の際に玉垣を取り外して少しひっこめる形で移動しているのでその際に玉垣の位置が入れ替わってしまったのかもしれませんが、このような読みやすい玉垣を見落とすのも考えにくく、当時をそのまま再現したのがこの状態なのでしょうか。時期をずらして2回寄進したので玉垣の場所が離れたのでしょうか。まあ玉垣の場所も寄進者が選べたかもしれないのでここにもここにもおいてよ、なんて話があったのかもしれません。「大黒座」ではなく「若狭謙吉」と書かれているので信仰心から別財布で寄進したのかもしれません。

明治20年代には、当時薄野よりずっと栄えていた狸小路に立花座という劇場があり、大黒座と競っていたようですが惜しくも明治25年の大火で焼失。札幌に限った話ではありませんが昔の面影を辿ろうとすると必ずと言っていい程火事で焼失という史実に出くわしますね。昔は本当に火事が多かったのですね…。大黒座はお抱え俳優による狂言等のほかに地方巡行の一座のお芝居なども盛んに行われていて流行の先端となっていた節があります。オッペケペー節をはやらせたのが大黒座といわれています。前述の立花座焼失後は競争相手もないまま市場独占状態が続いたようで、正月興行などは一日の木戸入場者が1200人あまりにものぼるという大盛況。手品なども興行されていたようです。政談演説会の会場としても使われ広く庶民に親しまれていたようなのでやはり妓楼目当ての人々以外も訪れていた劇場と言えるでしょう。観客数の増大とともに明治32年に新築されていることからも栄華が偲ばれます。

古地図をみていると薄野遊廓から外れて中島公園側(この神社の斜め向かい)には「札幌座」という劇場が建てられています。時期はこの大黒座より新しい時期に建てられたようですが、大黒座があまりに盛況だからこそ別の劇場が近場に建つのだろうと思われます。ちなみにその札幌座、以前の記事でみた「西之宮」の主が建てたようで、一軒の料理屋が劇場を建ててしまうその儲かりっぷりが当時の薄野遊廓ドリームを偲ばせてくれます。

次回に続きます


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