その5からの続きです。まだ遊女の玉垣らしきものには出会えませんが今と昔が実際に交差しているようでとても面白いです。今回はこちら

三文字が刻まれたこちらの玉垣(画面中央)。最後の文字は間違いなく「楼」なので、妓楼の玉垣であることが分かります。最初の文字は一見小の字に見えますが崩し字の北ですね。となると真ん中は

真ん中の文字はくずし字の越ですね。北越楼。
これは嬉しいことに古地図にも載っていました。

上の画像で一番左下にあるのが北越楼です。中規模以上の楼ではあります。玉垣が残っていないだけかもしれませんが、名前が出てこない楼もたくさんある中で玉垣に名を刻めるほど多額の寄進をしているのでなかなかの楼といって良いかと思います。
話がずれますが、上の画像は明治43年の薄野遊廓の一部なのですが、決して妓楼が並んでいるだけの街なのではないことが分かります。
妓楼やその事務所以外に
・小間物店
・八百屋(林檎・玉葱の店)
・銭湯
・料理店
・薬屋
などがこの一角だけでも見受けられます。薄野遊郭初期の地図をみるとこれらのお店は見当たらないのですが、発展と共に必要に応じて出来ていったのでしょう。決して遊郭内には妓楼しか許されていないということではないのが分かります。
地図作成をしていて、私は遊廓について勘違いをしていたというか誤解をしていたなと思う場面がありました。地図上にもあるように、実際には料理屋があったり銭湯があったり、薬屋、八百屋、そして劇場など、決して妓楼だけの街でなく、あくまで歓楽街なんですよね。現在の新宿歌舞伎町とシンクロします。とにかく楽しい街だったのだろうと思います。地図上にも果物屋さんらしきお店(林檎玉葱武田新平)がありますが、新宿歌舞伎町にもつい最近まで百果園という果物店?たしかありましたね。
薄野遊廓。その中に遊女がいたのは事実ですが、遊廓=妓楼・遊女・花魁=悲惨な話の数々…みたいなのだけが全てではないなと、楽しみ方は人それぞれだったのだろうと思いなおしました。現在の歓楽街も劇場で映画見て飲んで歌って帰るだけという人々は普通にたくさんいますが、地図を眺めている感じではそういうのと近かったのだろうと思い直しました。これがさらに遊郭初期になるとほとんど妓楼(貸座敷)だけの状態なのですが(一応明治18年の古地図には貸座敷とは別に旅籠屋の記載もあるのですが当時売女屋を旅籠屋と称していた時期があるので実態としてはほぼ全て貸座敷でしょう)、徐々に関連企業からやはり発展していろんな形態の商いが増えていったのでしょう。
それから画像右下に見える旭湯?という銭湯らしき場所。古地図を見る限り、旭湯の隣には「登別温泉」と書かれているようでしたのでそのまま記しました。万一間違っていたらすみません。
今は〇〇温泉と名付けるためには成分や温度など細かな決まりがありますが、昔は温泉と名前を付けるのに厳格な規定はなかったのかもしれません。遊びごころで明治期にすでに湯治で知られていた登別の名を副題的に使ったのかもしれません。旅気分になれてなかなかいい名付け方な気がします。自由に外に出ることのできない遊女の中にはここを本当の登別温泉と信じて楽しんでいた方もいるのかもしれません。
遊廓にはいくつか〇〇湯がありますが、妓楼は性質上遊女が体を洗えるお風呂らしき設備はあったようですが、時折遊女も気分転換にこうした銭湯にいくことを楽しんでいたり(売れている遊女でないとお金が出せませんが)、妓楼に行く前の男たちは強制されるまでもなく皆こういう銭湯を事前に利用したようです。遊廓の外に自由に行くことのできない遊女にとっては大事な気分転換の場所だったろうと思われます。
ちなみに今回見た玉垣の「北越楼」は群雄割拠の薄野遊廓でも息の長い妓楼で、薄野遊郭が移転を余儀なくされて白石の地に「白石遊廓」として降り立った際にも昇月楼や岡田楼と並んでこの北越楼も大正になっても残っていました。人気があったのでしょう。
旭川の遊廓にも明治33年時点で「北越楼」という妓楼があったようですがおそらく偶然同じ名前で経営は別なのではないでしょうか(と今のところ考えています)。
そんな訳で今回も遊女ではなく妓楼の玉垣でした。でもこうして実際に古い地図に載っているものが現物の玉垣として残っていると時空の狭間をさまよっているような面白さがありますね。それでは次回に続きます。ありがとうございました。
動画派の方はこちらも合わせてご覧ください。玉垣を一本ずつ見ていく散歩です



“すすきのにある豊川稲荷札幌別院の玉垣に遊女の名が刻まれているらしい_その6北越楼” への4件のフィードバック
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